ザ・スニーカー2010年10月号に掲載された、『サクラダリセット』シリーズの短篇。
芦原橋高校に入学したばかりの浅井ケイと春埼美空が、初めて奉仕クラブで解決にあたった事件のエピソードである。
(ケイと春埼は七坂中学校でも奉仕クラブに所属しており、奉仕クラブで活動すること自体は初めてではないようだ。高校生になってから初めて、という意味)
以下、若干のネタバレを含む。
無意識的に能力を発動させてビー玉の中に入ってしまった、同じく新入生の世良佐和子を助けるため、ケイと春埼は奉仕クラブの顧問である津島からリセットするよう指示を受ける。津島=管理局からの指示は、あくまで「速やかにリセットし、世良佐和子がビー玉に入ってしまう前の状況まで巻き戻すこと」だけだ。
しかしケイはリセットで問題を初めから起きなかったことにするのではなく、「そもそも、どうして世良佐和子はビー玉の世界に入ることを望んだのか?」と考えを巡らせ、世良佐和子という女子生徒の内面に一歩踏み込んだアプローチをすることで、より深いレベルでの問題解決を目指そうとする。
まことに地味かつ地道、天地鳴動する能力バトルなんて決して起こらない、いつものサクラダリセットの短編である。
◆
流石だなと思ったのは、この短編におけるゲストキャラクタ・世良佐和子が「あまり魅力的でないように」書かれていることだ。
(もちろん椎名優のイラストでは可愛いらしい女子生徒が描かれているが)
これはストーリー上の必然で、世良佐和子をあまり魅力的な少女にすると物語の意味合いが大きく変わってしまうのだが、それでもここまで抑えて書くのは冒険だったろうと思う。極めてストイックな姿勢だ。
◆
言うまでもないことだが、「萌えるキャラクタを登場させること」は今のライトノベルの至上命題である。
しかし今作における河野裕は、おそらく意識的に世良佐和子を「あまり魅力的でない」=「安易に萌えられないキャラクタ」として造型している。
ただの記号としての「地味キャラ」「真面目キャラ」ではなくて、わざわざ「気持ちは分かるんだけど、でもこういう奴が本当にクラスにいたらかなりウザイだろうな……」といった印象を与えるようなキャラクタにしているのだ。何故だろうか?
おそらくその狙いは、世良佐和子の抱える不器用さや孤独感を、読者が安易に「萌え要素」として受容・消費してしまうのを妨げることにある。
(私も含めて)オタク気質を持ったライトノベルの主たる読者層は、不器用な少女を見てはその不器用さに萌え、孤独な少女を見てはその孤独さに萌え、盲目の少女を見ては障害のため不便している様子に萌える。萌えてしまう。そんな時としてロクでもない習慣を持っている。
つまりライトノベルにおいて「不器用」「孤独」「障害」といった要素を書いても、それは萌え要素として消費されるばかりだ。
しかし今作における世良佐和子が「安易に萌えられないキャラクタ」として登場することで、生真面目だが不器用な少女に対して習慣的に「萌え」ようとする読者はストップを掛けられる。
そして読者は彼女の「不器用」や「孤独」に思いを馳せ、また彼女が執着する「ルール」についての一考を促される、という仕組みである。
「とにかく萌えれば良いんだ」という風潮の昨今でよくこんな作品を書いたなぁ、というのが私の一番の感想だ。
◆
さて長々と「世良佐和子が魅力的過ぎないのが凄い。萌えにくいキャラクタにしてるのが凄い」ということについて書いてきたが、ここでひとつ忘れてはいけない点がある。
それは本当に河野裕が読者を萌えさせたくないと考えたのなら、世良佐和子ではなくて世良佐和男にすれば良い、ということである。
坊主頭で体重110kgの柔道部員、笑い声は「ガッハッハッ!」という設定にすれば一層確実だろう(笑) 本当に読者を萌えさせたくないのならば。
つまり、私は「なぜ世良佐和男でなく世良佐和子にしたのか?」という問いを立てなくてはならない。
その答えとして、すぐに思いつくのは3つ。
1.読者のニーズは世良佐和男よりも世良佐和子にあるだろうから。
2.ビー玉の中に入ってしまうのは、柔道部員ではなく女の子であるべきだから。
3.別に河野裕は萌えを否定しているわけではないから。
大変に真っ当で順当な3つである。
そして、これら全てが正解だろうと私は思っている。
今のところ河野裕は「萌え」を前面に押し出す作品は書いていないが、決して「アンチ萌え」「アンチライトノベル」という方向に向かってはいないし、あるいは「パロディ」といった方向に逃げようともしていない。
あくまでもライトノベルという枠内で、河野裕は作品の調和を保とうとしているように見える。
芦原橋高校に入学したばかりの浅井ケイと春埼美空が、初めて奉仕クラブで解決にあたった事件のエピソードである。
(ケイと春埼は七坂中学校でも奉仕クラブに所属しており、奉仕クラブで活動すること自体は初めてではないようだ。高校生になってから初めて、という意味)
以下、若干のネタバレを含む。
無意識的に能力を発動させてビー玉の中に入ってしまった、同じく新入生の世良佐和子を助けるため、ケイと春埼は奉仕クラブの顧問である津島からリセットするよう指示を受ける。津島=管理局からの指示は、あくまで「速やかにリセットし、世良佐和子がビー玉に入ってしまう前の状況まで巻き戻すこと」だけだ。
しかしケイはリセットで問題を初めから起きなかったことにするのではなく、「そもそも、どうして世良佐和子はビー玉の世界に入ることを望んだのか?」と考えを巡らせ、世良佐和子という女子生徒の内面に一歩踏み込んだアプローチをすることで、より深いレベルでの問題解決を目指そうとする。
まことに地味かつ地道、天地鳴動する能力バトルなんて決して起こらない、いつものサクラダリセットの短編である。
◆
流石だなと思ったのは、この短編におけるゲストキャラクタ・世良佐和子が「あまり魅力的でないように」書かれていることだ。
(もちろん椎名優のイラストでは可愛いらしい女子生徒が描かれているが)
これはストーリー上の必然で、世良佐和子をあまり魅力的な少女にすると物語の意味合いが大きく変わってしまうのだが、それでもここまで抑えて書くのは冒険だったろうと思う。極めてストイックな姿勢だ。
◆
言うまでもないことだが、「萌えるキャラクタを登場させること」は今のライトノベルの至上命題である。
しかし今作における河野裕は、おそらく意識的に世良佐和子を「あまり魅力的でない」=「安易に萌えられないキャラクタ」として造型している。
ただの記号としての「地味キャラ」「真面目キャラ」ではなくて、わざわざ「気持ちは分かるんだけど、でもこういう奴が本当にクラスにいたらかなりウザイだろうな……」といった印象を与えるようなキャラクタにしているのだ。何故だろうか?
おそらくその狙いは、世良佐和子の抱える不器用さや孤独感を、読者が安易に「萌え要素」として受容・消費してしまうのを妨げることにある。
(私も含めて)オタク気質を持ったライトノベルの主たる読者層は、不器用な少女を見てはその不器用さに萌え、孤独な少女を見てはその孤独さに萌え、盲目の少女を見ては障害のため不便している様子に萌える。萌えてしまう。そんな時としてロクでもない習慣を持っている。
つまりライトノベルにおいて「不器用」「孤独」「障害」といった要素を書いても、それは萌え要素として消費されるばかりだ。
しかし今作における世良佐和子が「安易に萌えられないキャラクタ」として登場することで、生真面目だが不器用な少女に対して習慣的に「萌え」ようとする読者はストップを掛けられる。
そして読者は彼女の「不器用」や「孤独」に思いを馳せ、また彼女が執着する「ルール」についての一考を促される、という仕組みである。
「とにかく萌えれば良いんだ」という風潮の昨今でよくこんな作品を書いたなぁ、というのが私の一番の感想だ。
◆
さて長々と「世良佐和子が魅力的過ぎないのが凄い。萌えにくいキャラクタにしてるのが凄い」ということについて書いてきたが、ここでひとつ忘れてはいけない点がある。
それは本当に河野裕が読者を萌えさせたくないと考えたのなら、世良佐和子ではなくて世良佐和男にすれば良い、ということである。
坊主頭で体重110kgの柔道部員、笑い声は「ガッハッハッ!」という設定にすれば一層確実だろう(笑) 本当に読者を萌えさせたくないのならば。
つまり、私は「なぜ世良佐和男でなく世良佐和子にしたのか?」という問いを立てなくてはならない。
その答えとして、すぐに思いつくのは3つ。
1.読者のニーズは世良佐和男よりも世良佐和子にあるだろうから。
2.ビー玉の中に入ってしまうのは、柔道部員ではなく女の子であるべきだから。
3.別に河野裕は萌えを否定しているわけではないから。
大変に真っ当で順当な3つである。
そして、これら全てが正解だろうと私は思っている。
今のところ河野裕は「萌え」を前面に押し出す作品は書いていないが、決して「アンチ萌え」「アンチライトノベル」という方向に向かってはいないし、あるいは「パロディ」といった方向に逃げようともしていない。
あくまでもライトノベルという枠内で、河野裕は作品の調和を保とうとしているように見える。

